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結婚を禁止してまで処女の朝鮮女を宗主国に貢いだ朝鮮の歴史

■黄文雄著・韓国は日本人がつくった(徳間書店)(P40~44)■


特に元の時代、モンゴル人の百数十年にわたる長期支配化では、
貢女・女(むすめ)の供出の催促が厳しかった。…

朝鮮女性における早婚の習俗は、このようなモンゴル人支配のもとで生まれた
ものだとも分析されている。…


この「貢女」の歴史は、中国の歴史書だけではなく『韓国通史』(学生社刊)
などの韓国人学者による「通史」にも散見できる。…


元時代、モンゴル人統監下での貢女献上は、高麗朝の貴族社会にとっては苦痛な
ほどであった。

なにしろ「処女」を献上しなければならないのだ。…


これが慣例となってしまった朝鮮では、元が抱える南宋の降人部隊「蛮子軍」
(南宋漢人部隊)に女を献上したことから、明や清へと朝鮮の貢女献上の悲喜劇が続いた。

その記録は「高麗史」「稼亭集」や墓誌に多く残っている…



では、ここで史料にもある史実を挙げてみよう。…


高麗が元に服属した後の元宗15年(1274)3月、
元は朝鮮へ南宋の軍人(蛮子軍)を派遣した際、高麗の婦女140名の供出を要求した。…
これに対し、高麗政府は「結婚都監」をもうけ、
市井の独身女性、逆賊の妻、僧人の女をかき集めて数を満たしのだった。…
集められた女たちは、「貢女」や「宮妓」として強制連行され、
ひとり絹12匹の化粧代で元のモンゴル人政府へと売られていった。
結果としては、元の要求にしかたなく応じたというよりも、
高麗政府はこれ幸いに人身売買で化粧代を稼いだ形となった。…


その翌年の忠烈王元年、元は高麗へ南宋の降人部隊「蛮子軍」1400人を派遣し、
駐屯させた。…
高麗政府は、軍人たちを慰めるため再び「寡婦処女推考別監」を設け、
各地へ役人を派遣し婦女を推考選別したのだった。…


中華帝国の朝廷が、朝鮮人の「貢女」選考について
少しでも不信を抱けば、すぐに朝廷から勅使が派遣された。…
勅使は、当然のごとく朝鮮の王宮へ乗り込み、
ときには勅使が直接選考をすることさえあったという。…


『明実録』(永楽7年2月)に記載されている例では、
明の永楽帝時代に内便の黄儼が勅使として朝鮮へ派遣され、直接美女を選んだとされている。…

このことに恐れおののいた朝鮮政府は、あわてて全国で結婚を禁止し、
13~25歳までの処女200~300人を各地から数回にわたって集めた。…
そして集めた女たちをさらに王宮内の景福宮にて選別し、最終的に美しい女を5名選び出したという。








■韓国の「奎章閣」のサイトにある高麗史の原文 ■
http://kyujanggak.snu.ac.kr/

高麗史 16巻を参照(現在、下記の部分は閲覧できません…朝鮮に都合の悪い歴史は捏造、抹消するようです…笑)

http://147.46.181.118/IMAGE/SNUG0639.PDF
のp26


■日本語訳を掲載しておきます■

●元宗十五年三月、元使が高麗を訪れて
「南宋襄陽府の軍人が妻を求めているので、国中で結婚が禁止し、 夫のない婦女を献上するように」
(『高麗史』)

●高麗に駐在する元の役人もまた良家の婦女を求め、美女を選んで強制的に結婚した。
高麗王は、何も言わなかった
(『高麗史提綱』)。

●忠烈王元年冬(一二七五)十月、
処女を元に献上する時期が近づいていたので、国中で結婚が禁止された
(『高麗史』)。

●忠烈王二年閏三月、元使が高麗に至り、
帰附軍のため妻となる女を献上するよう求めた。
高麗王は寡婦処女推考別監・金応文ら五人を諸道に派遣した
(『高麗史』)。

●忠烈王三年二月、国庫が窮迫したため、
「功の無い者でも金を納めれば官位を購入出来る」売官を始めた
(『高麗史提綱』)


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朝鮮では「慰安婦」は昔からの伝統です。
朝鮮人は自国の正しい歴史を学びましょう(笑)




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